第10回 定期総会

開催日 2018年7月8日(日)
会場 福岡市立中央市民センター 2F視聴覚室
福岡市中央区赤坂2-5-8
来場者数 45名
講演 栗秋 正寿氏
「アラスカ垂直と水平の旅」

議事の概略

「平成30年度 山のトイレ・環境を考える福岡協議会 第10回定期総会及び講演会」が、平成30年7月8日(日)13時から福岡市立中央市民センターで開催されました。
議長に酒匂輝昌氏が選出され、活動報告、30年度活動計画、会計報告、30年度会計予算、会計監査報告、運営委員会開催報告があり、これらについて質疑応答の後、役員改正がなされ、議案は全て出席者全員の承認を得て成立しました。
ただし質疑応答の中で、6月以降に行われた夏山フェスタの報告については、当会の会計年度が6月1日~翌年5月31日であることから、来年度の総会で再報告することになりました。

【尾登憲治氏の講演 「ナイロンザイル事件」上映】
1955年、前穂高岳東壁を登攀中の学生が、切れないとされていた新品のナイロンザイルが切れ、亡くなった。亡くなった若山五郎の兄である石岡繁雄は、その原因が登山者のミスによるものではなく、ナイロンザイルが鋭角の岩角にかかると、簡単に切れてしまうことを実験により突き止めた。一方、ナイロンザイルを製造した企業等は、この事実を認めず、公開実験と称し、ナイロンザイルが切れないよう岩角に丸みつける細工をし、ナイロンザイルが切れないことを示した。石岡はこれに対し、使用する登山者の安全を守るため、ナイロンザイルは岩角で切れることを20年間に渡って社会に訴え続け、社会が認めることになり、これがPL法の制定につながる。この間、20人を超える尊い命が失われた。
ナイロンザイル事件は、この20年に及ぶ石岡繁雄の執念とも言うべき苦闘の戦いであり、井上靖の小説「氷壁」は、このナイロンザイル事件の初期段階を題材にした作品である。上映された作品は、尾登氏が石岡の娘さんへの証言インタビューを通して「ナイロンザイル事件」の真相に迫った映像作品である。

「トイレ協議会通信 第21号」より

講演内容

1.プロフィール

 栗秋氏の登山の始まりは、15歳の時、北アルプスを舞台にした映画に感動し、修猷館高校の山岳部に入る。高校時代は、北アルプスを目標に、トレーニングのため50kg以上の荷を担ぎ、三郡縦走を何度もされたり、日常も60kgを超える荷を担いで高校の階段上り下りされていたという。九州工業大学でも山岳部で活動されていたが、20歳の時にバイクをいじっていて指を切断され、普通の技術者として生きるよりも大好きな山登りに人生をかけることになったという。1955年7月、大学4年の時、山岳部の後輩と二人で北米大陸の最高峰マッキンリー、フォレイカー(5,304m)、ハンター(4,442m)に挑むことになる。
1988年2月、ついに冬季マッキンリー単独登頂(世界で4人目、市場最年少)に成功する。続いて2007年3月、冬季フォレイカー単独登頂(冬季単独は世界初)に成功する。残る冬季ハンターの登頂は、9回挑戦するも実現できていない。
今も冬季アラスカ山脈登山の第一人者、栗秋正寿氏の挑戦は続いている。


2.垂直の旅

 垂直の旅とは、栗秋氏のマッキンリー、フォレイカー、そしてハンター(アラスカ山脈三山)への冬季単独登山の挑戦の物語である。
講演の中で、冬季単独登山の方法を次のように述べられている。
日本の四国以上の広さがあるデナリ国立公園の中には、栗秋氏一人しか入山記録がない年もある中を単独で登るには、まず荷を担がないでラッセルを行い、引き返して150kg以上の食料やギア等の荷を小分けし、5時間ほど進んでは4時間ほどかけて雪洞を掘り荷物をデポすると、元いた地点まで引き返し、残りの荷を運びあげ、これを4~5回ほど繰り返し、次の地点まで同じように繰り返して進むというやり方である。もちろん、悪天候の中では、雪洞の中で天候が回復するのを待つという。時にはそれが1~2週間続くこともある。こういった極限の世界での栗秋氏の登山スタイルは、生還を第一に考え、決して無理はしない、十分に余力を持って行動することだという。
そして凍傷対策としても有効なのが、日焼け止めクリームを露出する顔にたっぷり塗ることと同時に、朝、昼、夕そして夜食としてとにかく食べ、1日に4000~5000カロリーのエネルギーを得ることだという。このような日々が2~3ヶ月続く。そんな孤独ともいうべき日々も、栗秋氏にとっては楽しく、吹き荒れる風雪の中、雪洞に入り、川柳を作ったり、ハーモニカを吹いて過ごすという。


3.水平の旅

 水平の旅とは、冬季マッキンレー単独登頂を成し遂げ、下山後、アンカレッシから北極海まで2,400kmをリヤカーを引いて歩いた旅である。この旅は「垂直の旅」とは異なり、冬季マッキンリー単独登頂を成し遂げた日本人が帰国せず、北極海を目指して国道を歩いていることは地元でも話題になっていたため、行き交う車に乗っている人々から声を掛けられ、地元の人々との交流の旅となった。小さな村の学校に講師として招かれたり、地元の人に頼まれ、郵便物を運ぶ「世界一遅い郵便屋さん」を務めながら、北極海を望む海岸までの心温まる旅となり、今でもそこで出会った人々との交流が続いているという。


4.アラスカの山のトイレ事情

 夏には多数の登山者がアラスカの山の登るので、降り積もった雪を溶かして水を作るため、衛生上の理由から、小については団体ごとに決められた1箇所でする。大については携帯トイレを持参し、使用した携帯トイレやゴミは持ち帰るという規制がある。


「トイレ協議会通信 第21号」より